京都駅
2009年 07月 06日
窓の向こうの銀杏の葉が風に揺れていたり、藁半紙の上に踊るまだ幼い生徒たちのふぞろいの文字を見ていたり、秩序のある雑然さの中に収まっているパソコンの画面を見ている私が、ふと黒くてだだっ広い空間に放り込まれる。京都駅の、蛍光灯の光が弱い、どこを見てもたくさんの人のいる、南北自由通路の風景。
先月ここを通ったとき、そこにいる自分がすごくその場に「馴染んでいる」ような、なんだかヘンな気持ちがした。毎日その場を利用しているような奇妙な感覚。確かにここ最近京都に行く機会が多かったし、他のどの都市よりも足を運んでいるし、日常の廊下で見慣れた顔を、以前すごく偶然にあの人波の中に見かけたことがあったのも、関係があるのかもしれない。
そんな馴染んだ空気を持ったその場所に、私は日常の中で突然ふと立たされる。ここ数日そういうことが、すごく多いのだ。さっきは伊勢丹の入り口辺りから、あの高く開けた吹き抜けの様子を見ていた。
単なる記憶の錯覚で、大して意味など持たないだろうこのことに、それでも私は一体これはどういうことなのだろうと考える。京都の神様に守られているのかもしれない、という私の勝手な期待がそこにはあって、そんな気持ちがこれらの風景を私に見させているのだろうか。
先月ここを通ったとき、そこにいる自分がすごくその場に「馴染んでいる」ような、なんだかヘンな気持ちがした。毎日その場を利用しているような奇妙な感覚。確かにここ最近京都に行く機会が多かったし、他のどの都市よりも足を運んでいるし、日常の廊下で見慣れた顔を、以前すごく偶然にあの人波の中に見かけたことがあったのも、関係があるのかもしれない。
そんな馴染んだ空気を持ったその場所に、私は日常の中で突然ふと立たされる。ここ数日そういうことが、すごく多いのだ。さっきは伊勢丹の入り口辺りから、あの高く開けた吹き抜けの様子を見ていた。
単なる記憶の錯覚で、大して意味など持たないだろうこのことに、それでも私は一体これはどういうことなのだろうと考える。京都の神様に守られているのかもしれない、という私の勝手な期待がそこにはあって、そんな気持ちがこれらの風景を私に見させているのだろうか。
by kayauokamoto
| 2009-07-06 18:26
| 風景